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放送日時 2017-05-05

2017-5-5OA 「寛永のマルチ・アーティスト」

番組名:KYOTO space fountain

投稿日時 2017-05-05 13:15

出演者情報

パーソナリティ) ローバー都市建築事務所
         野村正樹

パートナー)  橋本沙抽里

音声

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岩倉実相院が元々あった上京区実相院町には「本阿弥辻子(ほんあみのずし)」という小径が存在する。
室町時代初期より、刀剣の三事(研ぎ・拭い・目利き)をもって世に重用された本阿弥家の屋敷があっ
たことに由来する。
  本阿弥家に江戸初期に書の世界で活躍した「寛永の三筆」の一人、本阿弥光悦が誕生したのは永禄元
(1558)年のことであった。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)以外に、木工・金工・漆工・革細工・
蒔絵・染色・螺鈿(らでん)等多彩な工芸技術の粋を集めて制作され、幼いころより家業を通じて、美
に対する高い見識眼を身につけるようになる。

  やがて、光悦は身につけた工芸知識を素養に、和歌や書の教養を反映した芸術作品を創り出し、俵屋
宗達とも交流を深めていく。その後、光悦の高雅かつ芸術的な才能は多方面で開花し、茶道、蒔絵、陶芸、
書など、多彩なジャンルで才能を発揮するようになった。
  そんな光悦に徳川家康から洛北鷹峯に広大な土地を与えられたのは元和元(1615)年のことである。
俗世や権力から離れた鷹峯の地に、彼は多くの金工・陶工・蒔絵師・画家等を集め、芸術に集中できる環
境を整え、光悦芸術村を築き上げた。この地で風月を楽しみ、以降22年間、その生涯を閉じるまで、数多
くの芸術作品を創出することになる。

  平安朝から続く伝統文化を基本に再構成し、変幻自在にデザインを加えるその手法は光悦流と呼ばれる、
極めて大胆で独創的な技法を生み出した。後に光悦は、宗達と共に淋派の創始者となり、尾形光琳へとその
精神は受け継がれていく。
  写真は、鷹峯・光悦寺にある大虚庵茶席。周りを囲む竹垣は「光悦垣」と呼ばれ、彼の高い芸術性を現
在に伝える大胆なデザイン。
「本阿弥辻子」を通るたび、そんな寛永のマルチ・アーティストに思いを馳せるのである。