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放送日時 2015-05-02

2015-5-2OA 【震災特別放送】建築士はこれからが本当の出番

番組名:きょうと・人・まち・であいもん

投稿日時 2015-05-02 15:30

出演者情報

ゲスト:京都市建設局南部区画整理事務所 杉田広明さん
聞き手:衛藤照夫、竹山ナオユキ

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宮城県女川市には、京都市から技術職員として派遣され、平成24年11月から1年の間赴任していました。赴任期間中は、道路や橋や下水道といった都市インフラの計画、国土交通省や復興省などとの予算折衝などに携わっていました。

女川町は、石巻の東に位置する、震災前の人口が1万人ほどの小さなまちです。元々が漁業を中心にしたまちで、海のまわりに住民の皆さんがお住まいになっていたこともあり、津波による建物の被災率が高く、震災後に残った建物は全体の3割程度でした。
女川町のまちづくりは、役場の職員の方々を中心にして、慎重にかつ迅速に計画・実施されています。私の赴任していた期間は、それまでには考えたことのない程のスピードと頻度で、地元説明会やワークショップが開催されました。それから今までも同じように取組んでこられたでしょうし、これからもそれは続くのでしょう。
復興計画の特徴としては、他の沿岸部の地域の復興計画の多くで採用されたような、震災時相当の津波に耐えられる大規模な堤防の建設ではなく、従来あった人と海との良い関係性を継承することでした。新たに築く堤防は最小限の高さに抑え、居住地は、震災以前の高波を想定したレベルの高台と、震災時相当の津波を凌ぐことのできる高さまで更に上げた高台の2段階で構成しています。1段目の高台には、駅や公共施設など人が定住することのない建物を設け、2段目の高台に住宅などの建物を配置するよう計画されています。特に堤防を低くしたことは、まちとして大きな選択だったと思います。漁業のまち、またサンマのまちとして、これまでとおり、海がまちのシンボルであり、まちのアイデンティティとしてあるために、漁業を生業とされている方々だけでなく、色々な立場の方々みんなで話し合う中で、人と海との物理的・心理的な距離を小さくされたのだと伺っています。

赴任期間中、忘れることのできないことがありました。道路まで冠水する高潮の際に、或るおばあさんが、冠水した水をみて怖くなって、役場に涙ながらに電話をしてこられたのです。電話を受けた私は、お宅へ伺って、潮が引くまで見守りをしました。震災後、時間は経ちましたが、被災地の皆さんの心の奥底には、その時の記憶が、いまも深く突き刺さっているのだと感じさせる出来事でした。
今年の3月には、石巻線の全線開通と女川駅の完成を機に”まちびらき”が開催されました。私も町からご招待いただき、このイベントに参加しました。ここに至るまでの、女川町の皆さんのご尽力を重々に感じる一方で、他に何もないまちの中に女川駅だけがあるという状況には、ようやくか、まだここか、というような思いがしたのも事実です。
震災から4年、女川町の復興には8年から10年かかると言われていますので、未だ折り返し地点でしかありません。実際には被災された住民のほとんどが、未だ仮設住宅やみなし仮設住宅に住まわれています。1日も早く、そんな皆さんが、震災前の、あるいはそれ以上の住環境が得られるようにと願うばかりです。ようやく復興計画が完成し、これから、街区やインフラの整備が始まりますので、建築士など建築業に携わる方々には、むしろこれまで以上に力を発揮していただきたいですね。私自身は、震災の記憶が風化されないように、復興・復旧は途上でまだまだ皆でやれることがある、ということを、様々な機会に広くお伝えしていきます。それが、お世話になった女川町への恩返しになると考えています。

 
短時間の往訪では知り得ない、被災地の方々の心のキズ。マスメディアから伝え聞けない生のコトバを、一人ひとりが語り部になって誰かに伝えていけば、震災の記憶は風化することはないでしょう。(竹山ナオユキ)

 

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