出演者情報
ただいま参上!
株式会社中村設計 北京都設計室
室長 岩田 信一さん
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教えてスペシャリストさん
瓦葺きの変遷
光本瓦店有限会社
代表取締役 光本 大助さん
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株式会社中村設計 北京都設計室 室長 岩田 信一さん
京丹後の建築とまちづくり
京丹後市の峰山町の出身で名古屋の大学に行った後、京都市内の中村設計に就職しました。20年程京都市内で設計をしていましたが、その間も出身地の丹後で仕事をしていたので会社に支店を出させてほしいと提案して北京都設計室という営業所を始めました。設計では京都市内に比べるとかなり雪が降るので、その処理など風土を考える必要があります。京都市内にいた時は峰山駅や学校関係の官庁の仕事が多かったですが、工場等の民間の仕事もしました。現在、月曜日は京都市内の事務所に出て火~金曜日は丹後で仕事をして、週末京都市に帰ってきます。京都市にいる時からお寺の木造の設計もしていたので、その経験を丹後で活かそうと思っていましたが、今までやってきたことが無駄かなと思うほど新しい経験がありました。今は伝統建築物保存地区で与謝野町加悦のちりめん街道のアドバイザーをしています。古い建物は原則、竣工当時というわけではないですが、そのまちなみが賑やかだった頃の形態に戻す形で再生しています。外観と骨組に関して行政から8割程の補助がでますが、内部は個人で好きにできます。もともと地元出身なので色々知っていますし、一度外に出ていたので、また違う視点でものが見られます。あらためて丹後の美しさや良さがわかるので、それをもっと活かす方法はどんなものがあるだろうという考えになりました。
仕事以外ではNPO法人天橋作事組で活動しています。作事組は本来、職人を育てる、伝統工法の技術を磨いていくことが目的ですが、設計者なので市民の方に伝統建築の良さを知ってもらうことで改修の仕事が出て、職人さんの腕が磨けることに繋がればと思っています。京丹後市はコンパクトな町なので多くのことを求められますし、活躍もできるので非常に面白いです。宮津市の四軒町ぴんと館は宮津高校の生徒とまちなみ調査をおこなって空き家だった建物を使えるように再生しました。また現在は桜山の長屋も改修して活動拠点にしています。行政や専門家そして市民が協力してまちづくりに取組んでおり高校生とのまちなみ調査や市長、町長とまちなみをどうしていくかといった話もしています。また市民とも空き家をどう活用していくかを話し合っています。休みの日は京都市に戻って家族とゆっくり過ごしていますが、私のような仕事のスタイルはまだ少ないかもしれません。しかし我々の同業者や芸術家の方でIターンやUターンをされている方も結構おられ、まちを元気にする活動をしています。
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光本瓦店有限会社 代表取締役 光本 大助さん
瓦葺きの変遷
日本で初めての瓦葺き建築は飛鳥寺(法興寺)と言われています。西暦588年この建築を建てるにあたり、大陸から瓦技術者4人を呼び寄せその名前まで日本書記には記されています。屋根から降ろされていた時期もありますが1400年前に焼かれた瓦を見ることができます。昭和34年㈱瓦宇工業所さんが瓦を発見し、奈良の元興寺に葺いてあります。(※飛鳥寺は平城京に都が移った際(710年)に現在の奈良市に移転され、名前も元興寺と改められています。)
その後日本で瓦は焼かれますが、平瓦で重なりが多い葺き方本瓦葺きで、屋根は重くなり、それを持たす構造躯体もしっかりした物となり、長い間、権力者や神社仏閣に葺かれていました。また燃えては困る蔵には早くから葺かれて現在もその姿は残っています。
17世紀後半、滋賀の瓦師西村半兵衛さんが日本にあった和瓦を発明したという説があります。その瓦を三井寺の門に葺いたのが最初で、和瓦ができて全国的に住居屋根に葺かれるようになりました。地元の土を使い、その地で葺くことで重い瓦を運ぶ手間を省けます。各地に瓦を焼く窯があり、瓦の形、大きさも違い、全国的に葺き方もまちまちでした。
阪神淡路大震災で重い瓦が、家屋倒壊の原因にあげられました。軽くするために土葺きの土をとりました。もともと土を使わない工法もあったので改良され、桟木につめを引っかけ、桟木にくぎを打つという「引っかけ桟瓦葺き」に全国一斉に葺き方が統一されました。
京都は新景観政策の絡みでこう配屋根や瓦葺きを推奨されています。また耐震補強のために、屋根を軽くする工事は改修助成制度もあります。安心安全なすまいづくりを応援します。