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放送日時 2016-02-06

2016-2-6OA 愛着ある舞鶴赤れんが棟群         舞鶴観光協会 観光コンシェルジュ 古橋ふみ子さん/     左官伝承  トヨダヤスシ建築設計事務所 豊田保之さん 

番組名:きょうと・人・まち・であいもん

投稿日時 2016-02-06 15:30

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愛着ある舞鶴赤れんが棟群
             舞鶴観光協会 観光コンシェルジュ 古橋ふみ子さん

舞鶴赤れんがパークにはれんが棟が12棟残っている。そのうち5棟は舞鶴市が持っていて一般公開している。赤れんが博物館が1号棟で世界の本物のレンガを400点集めている世界で唯一のれんが博物館である。市政記念館が2号棟で喫茶店とホールがあり、市長の新年訓示を開催するほか貸館として利用できる。3号棟はまいづる知恵蔵で1階は土産物店、2階は展示スペースで本日は小学生から高校生の書き初めを展示しており貸館利用できる。4号棟は赤れんが工房で子ども達が勾玉作りや、陶芸の体験工房となっている。また、舞鶴で生まれ育ち愛着を持っている人たちが結婚式場として利用される。月一ペースで元倉庫が見違えるくらい綺麗に飾りつけされ、幸せなカップルが誕生している。5号棟はイベントホールで成人式やファッションショーやビアホールなど様々な利用がされる。
れんがの壁には40センチ毎にステンレスのピンが打ち込んであり、元の建物はそのままで新たに柱も取り付け耐震改修が完璧にされている。2号棟は20年ほど前に改装してステンドグラスを入れたりしているが、3.4.5号棟は明治35年当時のまま残すということで木製窓枠のままガラスも波うっている。
1号棟は鉄骨れんが造りの最古級で長手、小口を交互に積みあげるフランス積みで見た目が綺麗である。2.3.4.5号棟は1段目は長手、2段目は小口を交互に積みあげるイギリス積みで武器庫として頑丈な積み方を採用したとのこと。外壁面が黒ずんで汚れているように見える所がある。これは第2次世界対戦中、目立たないように真っ黒に塗った名残で、風化によって赤に戻った所と差ができている。れんが棟で囲まれた中庭は美しく「男たちの大和」「バルトの楽園」「日本で一番長い日」等のロケに使われた。
舞鶴観光協会では普段行けないツアーを企画開催している。HPや舞鶴四季旅に掲載しているので、ぜひ舞鶴にお越しください。

寒い取材日でしたが、赤煉瓦の建物で囲まれた中庭
に居ると明治時代の日露戦争前夜にタイムスリップし
た感覚になります。木造の小屋組と煉瓦壁を鉄骨で
補強した内部は、重厚で魅力的な空間でした。

伏木道雄

赤レンバパークのホームページ

パークガイド

2.6古橋ふみ子さん

古橋ふみ子さん

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                 トヨダヤスシ建築設計事務所 豊田保之さん
 左官伝承
 
「手に職つけなあかん!」小さな頃から両親が口酸っぱく言っていた。家業が、京都で代々左官業を営んでいることから、大手企業に就職し、一生をサラリーマンで全うするような教育は受けてこなかった。
私が建築を志したのは中学生の頃。伏見工業高校への進学を決めたことが契機となった。職人の子ということもあり、小学生の頃から現場に連れて行かれ、私はモルタルを混ぜるミキサーのオンオフをする係に任命された。時には、練り上がったモルタルをバケツに入れて運ぶ係。一般的に家のお手伝いといえば、お母さんのお手伝いをする方が多いと思うが、私の場合は、もっぱら父の仕事を見ることと体験することがお手伝いだった。思い直すと、モルタルを練りあげる達成感や、何かをつくりあげる楽しみを覚えたのはこの頃からのように思う。
両親の教育のたわものか、物心ついた時には、兄が左官職を継ぎ、私は設計者、弟は大工と左官ができる職人になっていた。この頃から、代々左官業として営んできた話を聞かされ意識をしだす。父から教えられたのは、豊田家の先祖は一六〇七年(慶長十三年頃)以前から左官職として携わっていたということだ。左官・佐藤嘉一郎氏の著書によると、豊田家から発見された古文書が左官関係文書の中でも最も古いとされており、当時は、御所の各御殿左官壁塗工事に従事していたそうだ。
さて、代々左官業を営んでいるので、兄弟全員を左官職に就かせるのが普通のように思われるが、父はそういう考えではなかったようだ。実は、父と祖父共に男三人兄弟であり全員左官職人であった。兄弟全員が左官職人となると、やはり色々あるらしい。現に、私も「兄弟でケンカせずにうまくやれている?」と質問されることがしばしば。父は、そういった兄弟間のいざこざが起こらないように、兄と私と弟にそれぞれ別分野の仕事に従事させたかったようだ。
「昔は、これしかなかったからしょうがなかったんや。今は便利なもんがたくさんあるからそれ使えばええやろ」父の言葉である。私の中では、この言葉こそが伝承すべきことであり、ある特定の時代の構法にこだわるべきではないという信念を持つようになった。
父は、「漆喰に使う糊は米から取っていた」と話をしていた。貴重な食料から壁に塗る材料を採取していたのだから、当時の庶民にはさすがに手が出にくかっただろう。それからしばらくして海藻を炊いて糊を取る方法があみだされた。時代にあわせた進化だ。
土壁は、竹小舞をかき、荒土を塗るのが伝統とされているが、起源は、木の小枝を組み、土を塗ったことが発祥のようだ。竹小舞を木舞と表現するのはその理由もあるのだろう。今、伝承されている土壁は、木舞だった時代から進化を続け、今の竹小舞土壁に変遷を遂げた。だが、昭和の高度成長期にそれら工事の需要が減少したことで伝承や進化が遅れてしまい、結果、造り方を知る技術者も少なくなってしまった。
ただ、悲観することはない。土壁の歴史を知る方法はまだ残されている。例えば、竹小舞に荒土を塗る場合、どちら面から先に塗っていたのか、これまで伝統的に行われていた塗り方なのかは、既存の土壁を調査することで把握できる。土の種類や竹小舞の質なども、現存する民家から当時の技術や時代背景などが伺えるだろう。
伝統を重んじるなら、今あるものは、安易に壊してしまってはいけない。遠い過去と未来を繋げるためには、今が最も大切な時代であり節目なのだ。

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